2018.3. 4.
ダニエル書7:1〜14、 マルコによる福音書13:14〜27

「主が来られる」

 きょうの聖書の箇所では、この世の終末のことが語られます。それ故にこの箇所は、「小さな黙示録」すなわち「小黙示録」と呼ばれております。何事にも初めがあれば終わりがあります。聖書のいちばん最初に置かれているのが、この世界の始まりについて記す「創世記」であり、聖書の最後は、この世の終わりを表す「ヨハネの黙示録」で終わっています。主イエスは、この小黙示録を語られた13章のあとで、十字架への道へと向かわれます。十字架の御受難を前にしてなぜ主は、この世の終わりについて語られたのでしょうか。それは、十字架という大きな苦難の後、主は復活なさって、神の栄光を受けられることと関連しています。つまり大きな苦しみのあとで、神が大きな栄光を主に与えられたということを通して、わたしたちもこの世で苦しみを受けるけれども、終わりの日には栄光の主にお会いすることができ、救いの完成にあずかって生きることができるとの約束がわたしたちに与えられているということが暗示されているのです。苦しみのあとでは、終わりの日に大きな救いの喜びに満たされるという希望がわたしたちには与えられているのです。

   わたしたちには、終わりの日がいつ来るのかということは隠されています。それは神にしかわからないことです。しかし、わたしたちの生きる世界はいま大きな環境破壊や核戦争の脅威、世界的な規模での飢餓など「終わりの始まり」と言えるような困難な状況に直面しています。これらの苦難は、8節にあるように「これらは産みの苦しみの始まり」と言えるものなのです。このような苦難の時には、「偽メシア」や「偽預言者」が現れて、しるしや不思議な業、奇跡を起こし、わたしたちを惑わそうとするから、気をつけていなさいと主は警告なさっています(21,22節)。

それでは、終わりの日は、どのようにしてくるのでしょうか。大きな苦難が突然やって来てこの世が滅ぶことがそのまま即終末ということではないのです。主は19節にありますように、「神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難」が来たあとで、終わりの日が来ると仰います。終わりの日は、主が再びこの世に来られることによってやって来ます。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(26節)のです。わたしたちは、いま主のお姿を見ることはできません。しかし、終わりの日には、わたしたちは主のお姿を見ることができるのです。そして主が「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集め」(27節)てくださるのです。わたしたちは「選ばれた人たち」の中に入っているのだろうかと不安になってしまかもしれません。しかし、現にわたしたちは、この礼拝の場に集められております。そのことが選ばれていることのしるしです。終わりの日には、わたしたちは呼び集められ、神が、わたしたちの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださり、もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない世界が始まるのです(ヨハネの黙示録21章4節)。そのことを必ず起こすという約束を神はわたしたちにお与えくださっております。わたしたちは、そのことを信じて、苦難のなかにあっても希望を持って生きることが出来る者たちとされたいのです。          閉じる