2018.2. 25.
エレミヤ書7:1〜15、 マルコによる福音書13:1〜13

「勝利する忍耐」

     きょうの聖書の箇所には、「この世の終わり」に関することが記されています。主イエスは、弟子たちに対して神殿がいつかは破壊されるということを予告なさいました。弟子たちは、それはこの世の終わり、終末を意味することだととらえました。当時のイスラエルの神殿はとても大きく壮麗なものであり、地方から出てきた弟子たちにとっては、その神殿が破壊されるなどということはそれこそ天地がひっくり返るほどの大事件であり、それはまさに「この世の終わり」の出来事だと思われるようなことだったからです。現代でも事情は同じでしょう。大地震などの大災害の惨状、核戦争の脅威、などを前にするとき、わたしたちはそれらが終末に直結すると考えてしまいます。しかし、主は、それらは終末そのものではなく、「これらは産みの苦しみ」の始まりなのだと仰います。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである(13章8節)。」そして9節以下には、その苦しみが、神を信じる者たちに迫害として起こってくることが語られます。時には愛する肉親同士の間にも不和や摩擦が起こるようなこともあり得る。しかし、そのときこそ「イエスこそ救い主である」と告白し、神の救いを証しなければならない。福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。聖霊の力が働いてそのことが可能にされると主は仰います。わたしたちがキリスト者としての苦難を受けるときこそ、神の救いを証する機会となるのです。使徒パウロも苦難の中で神の救いを力強く証し、伝道いたしました。わたしたちが受ける迫害の苦しみによって伝道の前進という実りが生じるのです。わたしたちは、苦難を味わわされるときこそ、主を証する者となるのです。神が私たちを宣教のために用いてくださるのです。主は、信仰によって受ける苦しみをそのように受け止めよ。終わりの日まで耐え忍んで行く者こそ救われると仰います。しかし、わたしたちは、ここで不安感にとらわれるということが起こって来ないでしょうか。わたしたちは、弱く罪深い者たちであり、そのようにして最後まで耐え忍ぶことが果たしてできるのだろうかと。このことについてある説教者は次のように述べています。「わたしたちは、自分の力で耐え忍ぶのではないということをもう一度思い起こしましょう。ルカによる福音書にしるされたこのところには『しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない』との御言葉が挿入されています。髪の毛一すじさえ、守りたもう御方が、わたしたちの信仰が失せないよう、守り、支えてくださるのです。ですから、終わりまで耐えられるかどうか、との心配を、わたしたちは捨てましょう。喜ばしい信頼の内に、すでに入れられているのです。」わたしたちは、困難の中にあるときこそ、神が、守り支えてくださることを信じて、希望を持って歩めるように祈り求めてまいりましょう。

         閉じる