2018.2. 4.
申命記6:4〜13、 マルコによる福音書12:28〜34

「最も重要な掟」

ここに登場する一人の律法学者は、これまで出てきた律法学者と異なり、主イエスに好意的です。彼は、前回聴きました聖書の箇所で、復活について主が立派なお答えをなさったのを見てぜひ主に質問したいと思ったのです。それは最も重要な掟とは何かということでした。主はお答えになりました。29、30節「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」。 ここで「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」という御言葉は、「一神教」や「多神教」がどうだとおっしゃっているのではありません。わたしたちの神はただお一人の神であり、わたしたちはその御方と一対一の交わりの中で生きるのだということ、そしてそのような交わりは愛し愛されるという関係においてなされるのだということをおっしゃりたかったのです。その愛は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」捧げられる愛でなければならない、自分の一部ではなく、自分のすべてをもって捧げられる愛でなければならないということなのです。そして主イエスは、第一の掟だけではなく、第二の掟も示されます。律法学者の質問の趣旨からすれば、第一の答えだけでも良かったはずですが、第一の答えに不可分のものとして、第二の掟も示されたのです。31節「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」神に対する愛と隣人愛、これらは不可分のものです。どちらか片方だけということはあり得ません。神を愛しているかどうかは、隣人をどう愛しているかでわかるのです。それでは、その場合の隣人とは誰のことでしょうか。それは、自分が気に入っている人、好意を持っている人というよりも、自然の感情では受け入れることができないような人、敵対的な関係にある人を指します。気に入っている人は、言われなくとも愛することが容易にできるのです。主は、あえて後者のような人を愛しなさいとお命じになっています。隣人を愛するということは、「隣人を赦す」ということです。31節にありますように「隣人を自分のように愛しなさい」と主はおっしゃっています。「自分のように愛する」とはどういうことでしょうか。私たちは自分のことは「赦して」しまうものです。自分を赦すように同じようにして他人を赦し、隣人のために心を配り、隣人の利益になるように行動しなさいということなのです。そのように言われたこの律法学者は、「おっしゃるとおりです」と主のお答えに全面的に同意します。そのような彼の姿をご覧になって主は、「あなたは、神の国から遠くない」とおっしゃいました。ここで注意したいのは、主は彼に「すでに神の国に入っている」とはおっしゃらなかったということです。あなたは神の国から近いところにいるが、まだ入っていないということです。それでは、彼に何が足りなかったのでしょうか。彼は、主のお答えになったことに対して、「おっしゃるとおりです」と明快に同意の言葉を表明します。このことから、彼はおそらくこの掟を自分の力で成し遂げることができると考えたのではないかと思われます。そもそもわたしたちは本当に真の意味でこの掟を完璧に守ることができるでしょうか。いくら頑張ってみても自分の力でこの掟を守ることができないということを気づかされる他はないのではないでしょうか。彼は、主の前でそのような自分の弱さ、無力さに愕然とするということが必要だったのではないでしょうか。神は、そのような私たちが神を愛し、隣人を愛し、赦すことができる者になれるように、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられました。神はそれほどまでに私たちを愛してくださっております。私たちが神を愛する前に、神は私たちを「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」愛してくださっているのです。そして、神はそのような私たちに主イエス・キリストを信じ、主の御後に従うことを求めておられます。自分の力で救いを獲得しようとする道を捨てて、悔い改めの心を持って、主イエス・キリストを信じ、主の御後に従って生きるという道を歩むようにと私たちは、神に招かれています。その神の招きにお応えできるように祈り求めて行きたいのです。

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