2018.1. 28.
出エジプト記3:1〜6、 マルコによる福音書12:18〜27

「生きている者の神」

 きょうの聖書の箇所は、イースター、復活節にも礼拝説教で取り上げられるところです。復活ということは、聖書の教えの中でも中心に位置づけられますが、非科学的であり、とても信じることができないと言ってつまずいている人はこの世には少なからずおります。復活など信じなくても、イエスの教えを処世訓のように聴いてそれで人生をよりよく、この現世をよりうまく渡って行けたら良いという風に考えるのです(洗礼を受けている人の中でさえもそういう人がいます)。きょうの聖書の箇所に出てくるサドカイ派と呼ばれている人たちもそうでした。彼らは、祭儀を司る貴族階級の人たちでした。彼らは支配階級とのつながりが深く、保守的な考え方を持つ人たちでした。彼らは現世を中心に考える人たちであり、信仰もこの世で幸福に生きるためにどのように役に立つかという観点からしかとらえることができませんでした。そのために、死んでから復活するということには、興味を示しませんでした。彼らは、復活ということがいかに無意味で不合理なことかということを主イエスに訴えるためにひとつの話を持ち出して主イエスに尋ねます。それが、19節から23節にある話です。このような話を持ち出すこと自体、復活ということをこの世の延長線上でしか考えていない証拠です。 主は、25節にありますように彼らに反論いたします。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」ここで言われております「天使のようになるのだ」というところは、直訳しますと「天にいる御使たちのようになるのだ」となります。すなわちそれは、「神の御手の内にあって生きる者とされる」ということでありましょう。復活するときには、この世におけるようにめとることも嫁ぐこともなく(単なるこの世の延長ということでなく)、神の御手の内にあって生きる者になるのだということなのです。さらに主は次のように仰います。26節「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。」これは、どういう意味でしょうか。神はアブラハムやイサク、ヤコブにかつて現れ、導いた神であるということではなく、彼らはいま神の前に生き、必ず復活にあずかることができるということです。それは、27節にもありますように「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」ということが根拠になっています。神が生きている者の神であるからこそ、アブラハムたちは、神の前に死んだ者たちとしてではなく、神にあって生きた者とされ、やがて復活の命を与えられるということになるからです。主イエス・キリストは、十字架にかかられ死んで復活なさり、私たちの復活の先駆けとなってくださいました。私たちは、復活を信じて生きる者たちの群れです。それが教会です。私たちは、復活の命、永遠の命に生きる約束を与えられている者たちです。私たちは、そのような者たちとして、現世だけを中心に生きるのではなく、主の十字架を仰ぎ、困難の中にあっても希望を持って生きることができるように祈り求めてまいりましょう。

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