2018.1. 21.
詩編24:1〜10、 マルコによる福音書12:13〜17

「神にお返ししよう」

きょうの箇所の最初に出てまいります「人々」とは、前の章から登場する祭司長、律法学者、長老たちのことだと思われます。彼らはファリサイ派やヘロデ派の人たちを遣わして、主イエスに質問し、主の言葉尻をとらえて彼を陥れ、なんとか亡き者にしようといたしました。それは、「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか否か」という質問でした。主がどちらの答えを出そうとも主が窮地に陥るという巧妙な質問でした。しかし、主は、ローマ皇帝の銘が刻まれた貨幣を持って来させ、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」との、機知に富んだ、巧みな返答をなさって、彼らの計略を退けられました。当時のユダヤの国は、ローマ帝国の支配下にありました。貨幣は、当時ローマ帝国のものとされておりましたので、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」というのは、ローマ帝国に税金を納めることを意味しました。もし主が「税金を払うな」と言えば、主は当局に訴えられて、反逆の罪で死刑にされたことでしょう。主が、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と仰ったので、反逆の罪に問われることはなくなりました。一方「神のものは神に返しなさい」との言葉で、主が神の律法をないがしろにしていないということがわかり、ユダヤ人の魂をローマに売り渡し、神の律法を無視しているというファリサイ派からの追求と非難もかわすことができました。しかし、ここで私たちが考えなければならないことは、主イエスの機知の素晴らしさということよりも、神に返すべき「神のもの」とは、いったい何のことなのかということです。それはきょう一緒に読みました詩編24篇にその手掛かりがあります。「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。」すべては神が造られ、備えてくださったものなのです。それを神にお返しするとは、すべてのものが神のものであるということを私たちが認め、神に栄光を帰していくこと、神に顔を向け、感謝して神とのよい交わりの中に生きることを言います。一方、私たちは「皇帝のものは皇帝に返す」こともしていかねばなりません。私たちは、神の民でありますが、納税の義務をはじめ、この世での責任を果たしていかなければなりません。しかし、「皇帝のものは皇帝に返し」つつ、「神のものは神に返し」ていく生き方は、しばしば困難を伴います。神の教えを守って生きることは、この異教の国日本では様々な障害にぶつかります。ここで、何よりも主ご自身がその困難の極みの中で十字架につけられて殺されてしまったということを深く心に留めたいと思います。主イエス・キリストは、誰よりも神の教えに従順であられた故に十字架にかけられて殺されてしまったのです。私たちは、主にお従いする者たちとして、自分の十字架を背負ってこの世で生きる困難さを味わわされます。しかし、主は、十字架にかけられてから復活を果たされ、神の栄光を受けられました。私たちもまた、神を信じて生きる者として、この世で様々な困難に直面いたしますが、主の十字架とご復活の出来事によって、私たちには、復活の主が共にいてくださって、私たちをお守りくださり、永遠の命に生きる希望が与えられております。そのことを確信して希望をもって歩んでまいりましょう。

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