2018.1. 14.
詩編118:22〜23、 マルコによる福音書12:1〜12

「ぶどう園と農夫」

   主イエスは、神の教えをしばしば「たとえ話」を用いて弟子たちや多くの人たちに示されました。主イエスは、きょうの箇所で何を語ろうとなさっておられるのでしょうか。 このたとえ話は、先週の箇所で出てきた祭司長、律法学者、長老たちに対してなされたものだということに彼らは気づきます(12節)。このことは、この箇所を読めば誰でもだいたいわかります。しかし、だからと言って「私たちは、祭司長でも、律法学者でも、長老たちでもないからこの話はわたしたちには関係ない」と言ってしまってよいのでしょうか。ここで言われております「ぶどう園」とは何を指しているのでしょうか。ここでは私たちの人生のことだとは考えられないでしょうか。私たちの人生は、そもそも私たちのものなのでしょうか。私たちが誰から生まれるのか、男に生まれるか、女に生まれるか等は、私たちが選ぶことはできません。私たちの命、人生は神が備えてくださったものです。私たちはそれらを神からお預かりしているのです。そして、神が私の人生を支えてくださっているのです。それにもかかわらず、私たちは自分の人生は自分のものであるかのように考えて、行動しています。それでは、人生というぶどう園の実り、収穫とはなんでしょうか。それは私たちをいつも養い、守り、育ててくださる神を信頼し、神に感謝し、神に心を向け、悔い改めて生きることです。そのことを神は望んでおられます。それがぶどう園の収穫であり、神の「取り分」と言えるでしょう。しかし、きょうのたとえで農夫たちは、ぶどう園の主人に取り分を渡すことを拒み、僕を殺し、主人の跡取り息子をも殺してぶどう園を自分のものにしようといたします。このぶどう園の主人は、僕にひどいことをされ、僕が殺されても、農夫たちを信頼し、そこに跡取り息子を送り込み、結局は殺されてしまうという仕打ちを受けます。私たちは、神が備えてくださった人生というぶどう園を自分のものであるかのように扱っています。その意味で、私たちも結局この農夫たちと同じことをしているのではないでしょうか。神が備えてくださったぶどう園である人生を自分のものだと主張している私たちの姿は、主イエスを受け入れず、十字架にかけて殺してしまった祭司長たちの姿と重なります。9節に「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」  私たちが、神が備えてくださった人生を自分のものにし、人生を私たちに預けてくださっている神の信頼に応えることをせず、神に敵対して生きているとしたら、私たちも主を十字架につけているのと同じことをしていることになるのです。そうであるとしたならば、私たちもまた神に滅ぼされるしかない者なのではないでしょうか。そのような視点でこの例え話を見ていくときに、10節11節の御言が光を放って私たちに迫ってまいります。10節から11節をご覧ください。「 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」この箇所は、詩編118篇からの引用です。この詩編は、人間の罪に対しての神の赦し、救いが語られています。人間の罪に対して神は人間を厳しく懲らしめられたけれども滅ぼすことはなさらず、救ってくださったということが語られています。そのようなことが語られているなかで、この引用箇所が記されています。家を建てる者が捨てた石が建物の土台の石になるということを通して神の救いが表されたということ、農夫たちによって殺され、ぶどう園の外に放り出された跡取り息子の死、すなわち十字架での主イエスの死によって神の救いが実現するということがこの詩編の引用によって語られているのです。滅ぼされても仕方のないような私たちのために、私たちの身代わりになって主が十字架で死んでくださったことによって、私たちの罪が赦され、私たちの救いが実現したのです。主が捨て石となってくださり、復活なさって土台の石となってくださることによって神の民の教会が建てられたのです。私たちはその教会の一員とされ、神を信じる信仰によって、私たちに新しい命、永遠の命に生きる道が与えられたのです。私たちはそのことを信じて歩む者とされたいのです。

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