2018.1. 7.
イザヤ書60:1〜6、 マタイによる福音書2:1〜12

「世に顕された救い」

   きょうの聖書の箇所を読んで、「年が明けたのにまだクリスマスの話なのか」と疑問を持った方もおられることでしょう。教会の暦では、降誕節・クリスマスの期間は、12月25日から1月6日の公現日と言われる日の直後の日曜日までをいいます。ですからきょうはまさに降誕節・クリスマスの最後の礼拝となるのです。だからこそ私たちは、この聖書の箇所によって、私たちにクリスマスの恵みが豊かに与えられるように御言に聴いてまいりたいと思うのです。

 主イエスの誕生にかかわる話は、ルカによる福音書にも出てまいりますが、ルカと違ってマタイによる福音書では、主イエスの近くにいた人たちの動向を記すのではなく、むしろ主イエスから近くない、遠い関係にある人々のことを記します。それは占星術の学者たちのことでした。彼らは、ユダヤ人ではなく、異邦人すなわち外国人でした。異邦人は、神の律法を知らないためにユダヤ人から蔑まれていました。たとえば、占星術や星占いは、神の律法で厳しく禁じられており、その戒めを破った者は死刑に処せられるとされておりました。

 それでは、彼らはなぜわざわざ遠くからやって来たのでしょうか。それは、彼らはとても不思議な星を見たからです。彼らは占星術の学者でしたから、星の運行や並び方などによって、人の運命を知ろうと研究して、人にそのことを知らせ、生業にしていたのです。その彼らが、何の得にもならないような、外国の王の誕生を知らせる星を見たからといって遠いところからわざわざやって来た理由とは何だったのでしょうか。彼らはその星に強い興味を抱いたのです。彼らは、なぜだかわからないけれども、その星が示す御方にどうしても会ってみたくなったのです。その星は流れ星でもないのに、移動して、彼らを一人の生まれたばかりの赤ん坊のところに導きました。それは、常識の上でも、自然の法則上でもありえないことでした。普通そのようなことがあれば、人は動揺し、疑い、それを否定しようといたしますが、彼らは専門家であったにもかかわらず、その星の導きに従って、その赤ん坊に出会い、ひれ伏し拝んだのです。それほどまでに彼らは喜び、神の御業の素晴らしさに打ちのめされました。彼らの常識を超える出来事の前に彼らはひれ伏さざるを得なかったのです。

 12節に「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」とあります。占星術の学者たちは、救い主に出会ったことにより、星に従うのではなく、神様の声に従う者となり、「ヘロデのところには帰りませんでした」。救い主に出会い、神の救いを見た彼らは、もはやヘロデのように自分の力にたよるという道に帰ることなく、もと来た道とは別の道すなわち、神の救いの道、主を信じてお従いする道を歩む者たちへと変えられて行ったのです。

 わたしたちも、彼らと同じように、いま神様の導きを受けて、この礼拝堂に集っています。異邦人の占星術師の上に星が輝いたように、わたしたちにも、きょうこの不思議な星は輝いています。そして、神様の光に導かれ、この礼拝堂に来た私たちは、ここで主イエスと出会い、いったん自分の頼ってきた力、能力、知識、すべてを手放し、恐れからも開放され、神様に自分を献げ、神様の言葉を聴きます。自分を信じて歩く道(ヘロデの道)に私たちは、もう戻りません。わたしたちは別の道、すなわち神様の言葉に従って、神様と共に歩む喜びの道を歩むのです。主イエス・キリストの誕生によってこの世に顕された救いの道を歩んで行くのです。

       閉じる