2017.12. 31.
詩編84:1〜12、 ルカによる福音書2:39〜52

「すべてを完成させるきずな」

 きょうの聖書の箇所は、四つの福音書の中で唯一主イエスの子供時代が描かれたところです。ルカはこのことによって何を語ろうとしているのでしょうか。

 41節と42節にありますように、主イエスの両親は、毎年過越祭に行くためにナザレからエルサレムに巡礼の旅に出ていました。主イエスが12歳になられたときにも両親は、イエス少年を連れてエルサレムに上りました。祭りの期間が終わって彼らがナザレへと帰りの道を進んで行き、宿をとろうとしたとき、両親はイエス少年の姿がないことに気づきました。彼らは一生懸命に捜したことでしょう。しかし、見つからなかったので仕方なく、もと来た道をエルサレムへと戻ったところ、神殿にいるイエス少年を見つけます。両親は、イエス少年に「どうしてこんなことをしてくれたのか」と詰問いたしますが、少年イエスの答えは意外なものでした。「すると、イエスは言われた『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか』」

主イエスは、12歳にしてここですでにご自分が「神の子」としての自覚に基づいて行動しておられるということがわかります。自分の本当の父は、神様なのだということです。この箇所で「自分の父の家にいるのは・・・」と訳されておりますが、原文には「家」にあたる言葉がありません。少年イエスが神殿にいたということから、「家」という言葉を補って訳されているのです。しかし、ここを直訳しますと「わたしの父に属している事柄」となります。このところは、イギリスで伝統的に用いられてきた「ジェイムズ王欽定訳聖書」においては、「私が、私の父の仕事に従事しているのが当然であるということを」となっておりました。このことは、主イエスが何のために生きているのかということに関わることだったのです。それは、主イエスが、すでに父なる神から与えられた使命によって生きているということを表しています。当時ユダヤの世界では、13歳で成人とみなされました。12歳の少年イエスは、まもなく大人になろうとする直前でした。少年イエスが、父なる神の使命に生きることを自覚しておられたということが明らかにされたいま、ヨセフとマリアは、少年イエスが両親のもとを離れていずれ旅だっていくということを意識せざるをえなかったことでしょう。少年イエスは、父なる神からの使命を自覚して、大人として神に従う道を歩み始められました。その少年イエスは、30歳のとき伝道生活を始められるまでの間、両親のもとで両親に仕えて生きられました。そこに主イエス・キリストのへりくだり、謙遜の姿勢を見ることができます。そのことは私たちの模範となることでもあります。  ところで、少年イエスは、52節にもありますように、神からの使命を与えられて歩み、神に愛され人に愛されて成長なさいました。それは、主が、父なる神と人との間にあって、深い愛の絆で結ばれていたということです。主は、聖霊によって、天の父なる神がこの世に誕生させてくださいました。神は御子を深く愛しておられます。そして私たちをも愛しておられます。それはヨハネによる福音書にもありますように、愛する御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになられ十字架にかけられる程の深い愛です。父なる神と御子イエス・キリストの深い愛の絆に基づいて、私たちもその愛の絆に結ばれているのです。そして、キリストの体なる教会の枝のひとつひとつである私たち一人一人もお互いに愛し合いなさいと主はお命じになっています。そして愛の絆で結ばれ、教会の一致を完成させなさいと使徒パウロは私たちに勧めています。教会の一致を完成させることが、この世を生きる私たちにとって、すべての信仰生活の基本となるのです。すべてを完成させる絆は、愛です。それは、神が私たちを愛してくださる、神の愛に基づいています。神を信じて生きる私たちが、神を愛し、隣人を愛し、神に仕え、隣人に仕えて、救いの完成を目指して歩むことが出来るように祈り求めてまいりましょう。

       閉じる