2017.12. 17.
イザヤ書30:18〜26、 ヨハネによる福音書1:1〜18

「すべてを照らす光」

きょうの箇所は、ヨハネによる福音書の序文とも言えるところです。

「初めに言(ことば)があった」という1節以下の御言葉は、創世記の初めに似ています。

「初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。(創世記1章1節から3節)」

 創世記の初めには、この世界にある様々なものを神は言葉によって創造されたと記されています。なぜヨハネによる福音書の序文がこのように創世記の創造の箇所に似ているのでしょうか。14節には、言(ことば)が肉体となってこの世に来られたのがイエス・キリストだと述べられます。イエス・キリストは、その教えによって私たちに信仰を与えてくださり、私たちをキリストに似た者に創り変えてくださる、そのことは私たちを新たに生まれ変わらせてくださることなのだ、それはすなわち私たちが新たに創造されることなのだということ、イエス・キリストのこの世への到来は、私たちを新たに創り変えること、新たに創造するためだったというこをここでヨハネによる福音書の著者は表そうとしているのです。 人間を新たに創造するということは、人間を救うことを意味するのです。「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』3章3節」

神の言には力があります。神の言は命を創り出し、モノを創り、出来事を起こす力があるのです。それほどに神の言には、偉大な力があるのです。ヨハネによる福音書には、「言は神であった」と述べられております。その言は、この世が神によって創られる以前からあったというのです。その言が14節にありますように、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」、すなわち主イエスがこの世に来られたと書かれています。そのことがまさにクリスマスの出来事なのです。聖書の教えは、言葉というもの、特に神の言というものをとても大切に考えています。主イエスは、言の力によって病人や悪霊に取りつかれた人をお救いになりました。またその言によって神の教えを宣べ伝えられたのです。わたしたちにおいても言葉はとても大切です。言葉は、人を生かしもし、殺すことさえあります。言葉の暴力は、人を死に追いやることさえあります。一方では、愛のある言葉は、人に慰めを与え、困難な状況にある人を立ち直らせることもできます。しかし、人間の救いは、人間の言葉によって与えられるものではなく、神の言によるほかはありません。神の言こそが私たちに信仰を与え、人を新たに創り変え、救いに導くのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです(ローマの信徒への手紙10章17節)」「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。(ペテロの手紙一1章23節)」  4節で「言の内に命があった」と述べられております。創世記に記されておりますように全ての生きとし生けるものは神の言葉によって創造されました。その神の言に命が宿っており、それは私たちを生かすイエス・キリストのことであり、私たちを照らす光でもあられるのだとヨハネによる福音書では述べられております。地球や金星などの惑星や月が、自らは光を放たず、太陽からの光を反射させて光り輝いているように、私たちもまた永遠の命の光であられる救い主イエス・キリストの光を受けて、その光をこの世の人々の前に輝かせ、イエス・キリストの救いをこの世の人々に証して行く者たちとなれるように祈り求めて行きたいのです。

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