2017.12. 10.
創世記11:31〜12:9 、 マタイによる福音書1:1〜17

「主イエスはわれらの友」

マタイによる福音書においては、なぜ最初のところでこんなに長々と一見無味乾燥に思われるような家系図が書かれているのでしょうか。

 神は、太古の昔アブラハムとその子孫に祝福を与えるとの約束をなさいました。創世記12章2〜3節には次のように書かれています。

 「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

   その神のお約束が主イエス・キリストにおいて実現したのです。その約束とは、わたしたちに祝福が与えられる、救いが与えられるということです。その救いとは、私たちの罪が赦されるということなのです。それはキリストが十字架にかかられ、復活なさることによって成し遂げられました。神は、アブラハムにお与えになられた約束を成し遂げるために、愛する御子主イエス・キリストをこの世に誕生させられたのです。主イエスは、私たちの救いのためにこの世にお生まれになったのです。この系図に出てくる人たちは、皆清潔で純真な人たちばかりではありませんでした。多くの人々の尊敬を集め、英雄として讃えられ、慕われた王ダビデにしても、自分の部下の妻を我がものとするために、部下を死に追いやるという大きな罪を犯しました。この系図ではそのことが隠されることなく暴露されています。ダビデの死後子孫たちは神に対して多くの罪を犯し、神の裁きを受け、国が滅ぼされ、民の多くは敵国の都バビロンへと捕らえられ、捕囚の民となります。その後イスラエルの民は、帰還を許されましたが、引き続きペルシャやローマに支配され、亡国の民であることには変わりはありませんでした。このようにして主イエスは、先祖たちが犯してきた多くの罪を全て担って、罪を贖う者としてこの世に来てくださいました。そのような系図で示される罪の歴史を背負うことができる御方だからこそ、人間の罪を贖うことがおできになられたのです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(フィリピの信徒への手紙2章6〜8節)。」「…さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのです…。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。…… 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。……キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです(ヘブライ人への手紙4章〜5章)。」

主イエスは、わたしたち人間と全くかけ離れたところで生きられた御方ではありません。肉の形を取ってこの世に来られた御方であり、人間と同じように苦しみも悲しみも感じることが出来る御方でした。徴税人や遊女など罪人と呼ばれた人たちとも喜んで一緒におられ、救いの御業をなさった御方です。それゆえにわたしたちの友でもあられるのです。その御方がわたしたちの罪を背負って十字架にかけられて、復活を果たされ、わたしたちの罪を贖ってくださることによって、わたしたちの罪が赦され、わたしたちに救いが与えられました。そして、わたしたちに永遠の命に生きる道が与えられたのです。この御方の誕生はこの世に救いの光が差し込んできた出来事なのです。クリスマスとはそのことに感謝する日です。わたしたちがそのことを深く覚えて、感謝と喜びをもってクリスマスを迎えることができるようにこのアドベント、待降節の時を過ごしてまいりたいと思うのです。

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