2017.12. 3.
イザヤ書40:3〜5、 ルカによる福音書3:1〜17

「救い主を待ち望む信仰」

ここに洗礼者ヨハネが登場します。荒れ野で彼に、神の言葉が降り(くだり)ました。それは、救い主がこの世に到来するにあたって、あらかじめその救い主が来られる道を備える者として働けとの声でした。 そのため彼は、民衆に備えとしての洗礼を授けたのです。その洗礼とは3節にありますように「罪の赦しを得させるため悔い改め」の洗礼でした。「悔い改め」とは、何でしょうか。それは、悔いる、後悔するという意味ではなく、まず第1に神の前に自分の罪深さを認めることです。それは私たちがしてしまった様々な個々の悪い行いという罪を認めるということよりも(もちろんそれも大切なことではありますが)、私たちを愛し、養い導いてくださっている神に背を向け、自分の欲望や願いを中心に生きようとする罪を認めるということであり、さらにそのことによって神や隣人を愛することが出来ずに憎んでしまう、敵対してしまうという罪を認めるということです。第2に、そのような私たちが、神様の方に向き直ること、神様の方に方向転換すること、神様の御心を尋ね求め、その御心に聴き従うことです。そのような悔い改めこそが、救い主を迎えるための備えであるとヨハネは民衆に語ったのです。その悔い改めとは、心の中だけのことなのでしょうか。ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と命じます。それは、私たちの生活が変わるということが伴うのです。ただ洗礼を受けさえすれば罪の赦しが与えられるいうことではないのです。「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ということの具体例としてヨハネは、11節にありますように「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」ということを語りました。それは一見意外なほどあっけないこと、簡単なことのように思えます。しかし、私たちは貧しい中にあっても、神からの恵みを受けていることに感謝し、自分よりも困っている人のために、自分の持っているものを分かち合うことが求められており、そのことの中に、自分の欲望や願望の方に目が行っていた心の向きを、神様の方に向け直すということが現れているのです。心の中だけではなく、具体的な行動で示して行くこと、生活の変化が伴うことが、「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ということなのです。なにも社会事業を興して多くの貧しい人たちを助けていくというような大それたことでなくてもよいのです。ヨハネは、悔い改めが罪の赦しにつながっていくと唱え、民衆に「悔い改めよ」と語りかけましたが、まことの救い主イエス・キリストがこの世に来てくださり、十字架にかけられ、死なれ、復活を果たされることによって、私たちには罪の赦しが与えられています。私たちはそのことを信じ、感謝するときに、悔い改めにふさわしい実を結ぶことができる道が開かれていきます。自分の欲望や願望を中心にし、神に背いていた私たちが神に向き直って、神を愛し、隣人を愛して生きる道、永遠の命にあずかって生きるという救いの道を歩むことができるようになるのです。私たちが洗礼を受けることにより、そのことの約束が与えられたのです。私たちは、そのことを信じて、希望を持って歩める者とされたいのです。

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