2017.11. 26.
ホセア書11:7〜9、 マルコによる福音書11:27〜33

「まことの権威」

主イエスが、神殿の境内を歩いておられたとき、祭司長、律法学者、長老たちがやってきて主イエスに質問いたしました。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれがそうする権威を与えたのか。」ここで「このようなこと」と言われておりますのは、先週読みました「神殿のきよめ」「宮清め」と言われていることを指しています。主は、神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出され、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返したりなさいました。祭司長たちは、ガリラヤの大工の息子に過ぎないイエスに、神殿でそのようなことをする権威などありはしないと思っていました。ここで言われる権威とは、権力、力、支配、全権、支配する権限などのことを言います。本来、権威というものは、自分で勝手に主張できるようなものではなく、彼らの質問はある意味もっともな質問でした。その彼らに対して主イエスは逆に「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」と質問なさいました。ヨハネは、当時民衆に真の預言者と認められておりました。しかし、祭司長たちは、ヨハネを真の預言者とは認めておりませんでしたのでその質問には答えられませんでした。そして、彼らは、自分たちが優れた宗教指導者であることを自認しておりましたので、主イエスの権威によって自分たちの権威が揺るがされることを認めるわけにはいきませんでした。彼らは主の質問に「分からない」と言って逃げたのです。このことは、私たちにもかかわることです。祭司長たちは、主イエスの権威を問題にしました。私たちもしばしば主イエスの権威を問題にいたします。「果たしてイエスは、救い主なのだろうか」「果たして神の子なのだろうか」と。私たちは、主イエスの権威ではなく、自分の権威に従おうとしてしまう者たちです。「自分の権威」とは、自分の人生を支配する権限を持っている者は自分自身であり、自分こそが人生の主人公であるということです。このことはあのエデンの園の出来事以来、私たちが負っている罪ということです。神に従って生きるのではなく、自分を中心に生きようとすることです。そのことが人間の罪の本質です。そのことによって、人間は、神に敵対し、人間同士お互いがいがみ合い、憎しみ合うようになってしまいました。そのような私たちにとって救いとはなんでしょうか。主は、群衆や弟子たちに「救われたいと思うならば、自分を捨て、自分の十字架を負って私に従いなさい」とおっしゃいました(8章34〜35節)。言い換えるならば、自分の人生の主人公は自分だと思っている限り、救いは得られないということです。自分の人生の主導権を神に明け渡し、主の「まことに権威」に従うときに、神のご支配に従うときに初めて、救いが得られるのだと主は私たちにおっしゃっているのです。私たちは、そのように歩むことができるようにいつも祈ってまいりたいと思うのです。

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