2017.11. 19.
イザヤ書56:1〜7、 マルコによる福音書11:12〜25

「神殿のきよめ」

きょうの箇所は、何か不思議な感じがするところです。主は、最初にいちじくの木を呪われたと聖書に記されています。20節にはその木が枯れていたというのです。その木は、いちじくの実がなる季節ではなかったのですから、実がならないのは当然です。その実がならないからと言って呪われるというのは、主イエスともあろう御方が、なにか大人げないように思えます。そして、15節からの箇所では、主が神殿の中で乱暴を働かれたということですから、これまでの主の行動からすれば理解に苦しむような行動をなさいます。このことを理解する鍵はどこにあるのでしょうか。それはこの箇所の文の構造にあります。これは、いちじくの木の話の間に神殿のきよめの話が入れ込まれている、言い換えれば、神殿のきよめの話がいちじくの木の話で挟まれている構造になっているのです。こういう構造は、マルコによる福音書では各所に見られます(例えば、5章21節以下)。これは両方の話が密接な関係を持っていることを表しています。このいちじくの木を呪うという話は、神殿のきよめの話を通してでなければ理解できないのです。11章15節以下の話は、神聖な神殿の場で商売をするとはけしからんという意味にとれますが、そうではありません。神殿の中で犠牲として献げられる鳩を売ったり、献金に使うお金を両替したりすることは正統なこととして認められていたのです。神殿は、礼拝する場が複数に分けられており、ここで言われている「神殿の境内」とは「異邦人の庭」と呼ばれるところでした。ユダヤ人たちは、自分たちが礼拝する場である庭では商売させないで、ユダヤ人以外の人たちが礼拝の場に使用していた「異邦人の庭」で商売をさせていたのです。異邦人たちを差別し、自分たちを特別扱いしていたのです。自分たちは、静かな礼拝の場にいて、自分たちは正しい礼拝をしているとの自負のもとに、自分たちだけの平安や慰めだけを得るために礼拝していたのです。主は、そこに自分たちだけの利益をはかろうとする貪りの罪を認められ、お怒りになったのです。17節に「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」とありますように、神殿は、ユダヤ人だけのものではなく異邦人にも開かれているところです。教会も同じです。教会は、神によって召された神の民が集うところです。派閥をつくったり、気が合わない人を排除するようなことがあってはならないのです。教会に連なるひとり一人は、神が召し集めてくださった神の民です。お互いを尊重し、赦し合い、支え合って共に神に真心からの礼拝をお献げしていくことが、真の礼拝です。そのことが、主が期待される信仰生活における実です。いちじくの木の呪いの話によって、教会に連なる私たち一人一人が、主が期待されている実を実らせているのかどうかということが問われているのです。私たちの貪りの罪によって、主が期待される真の礼拝をお献げしていくことができないということが問題にされているのです。しかし、私たちは、罪深い存在であり、利己的であり、貪りの罪によって、本来は自分たちの力だけでは、主が期待される信仰の実を実らせることが出来ず、呪われ、滅ぼされるしかない者たちです。しかし、そのような私たちのために、私たちに代わって、私たちの罪を背負ってくださり、主ご自身があのいちじくの木のように呪いを受けられ、十字架の上で滅ぼされ復活を果たされたのです。そのことによって私たちは新しく生きる者とされました。復活の主が共にいてくださるということを信じて歩むならば、私たちは主が期待される信仰の実を実らせることができるようになります。そのことを信じて、神に召し集められた私たちの群れが、「すべての国の人の祈りの家」となることができるように祈り求めて行きたいのです。

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