2017.11. 12.
ゼカリヤ書9:9〜10、 マルコによる福音書11:1〜11

「主の名によって来られる御方」

主イエスと弟子たちの一行は、いよいよエルサレムに到着します。このエルサレムで主は、十字架にかけられます。主はこれまでにいろいろなところを旅して来られ、町に入られる際には、控えめな態度であられましたが、今回は堂々とした態度をお示しになってエルサレムに入られます。きょうの聖書の箇所のように動物に乗り、敷き物の上を、人々の歓呼の声に迎えられながらの入城は、王としての態度を示しています。エルサレムは、イスラエルの国の都です。主イエスこそ、王の中の王であられ、神の民イスラエルの王と呼ばれるに最もふさわしい御方です。しかし、実際には、イスラエルは当時ローマ帝国に支配されており、エルサレムにはローマ帝国から遣わされたローマ人の総督ポンティオ・ピラトがおりました。そして、エルサレムには、大きな神殿があり、宗教的にもイスラエルの中心であり、王として民の歓呼をもって迎えられ、その中心にお座りになるのは、本来は、神の御子であられる主イエスの他にはいないはずでした。しかし、実際には、主イエスは、エルサレムで最終的には、祭司や律法学者、ローマの総督ポンティオ・ピラトらによって十字架につけられ、殺されてしまうのです。最終的には、王の中の王であられる主イエス・キリストは、エルサレムの人々から拒まれ、殺されてしまったのです。しかしこのことはそれから2000年を経た現代に生きる私たちと無関係なことではありません。私たちはしばしば、主イエスを王とするのではなく、自分自身を王としているのではないでしょうか。私たちの中に主イエス・キリストを王としてお迎えし、お従いするのではなく、いつも私たちの心の中に主イエスを拒む心が起こってくることに気をつけなければなりません。私たちは、いつも主イエスを王の中の王として、神の国の王として拝み、そして仰ぎ、神に向き直って、悔い改めて歩むことを祈り求めつつ歩んで行くことが大切なのです。ところで、先ほど、「主は堂々とした王としての態度でエルサレムに入城された」と申しました。しかし、その実際のお姿は、この世的な意味での王としての有様とは、異なるものでした。主は、子ろばに乗って入城されたのです。町に入城するのに、実際には子ろばに乗って入る王はおりません。たいていは、馬に乗って入城するものです。そして、主イエスが進まれる道に敷かれたのは、レッドカーペットではなく、人々の衣服や野原から切って来た葉の付いた枝でした。そのように、主イエスの態度は堂々としておられたのですが、外見としては、王の入城にしては一見みすぼらしいようなお姿だったのです。しかし、きょう一緒に読みましたゼカリヤ書9章9節から10節にありますように、マルコによる福音書に語られておりますこの主イエスの入城のお姿の記述は、旧約聖書の預言が成就したことを表しているのです。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」 主イエスは、高ぶることなく、へりくだって、私たちの救いのためにこの世に来られ、十字架につけられ、私たちに命を差し出してくださいました。私たちもまた、神の前にへりくだり、神に仕え、隣人に仕える者とされたいのです。主イエス・キリストは、来たるべき救いの完成する終わりの日に、主の名によって再びこの世に来られる御方です。その御方の十字架を仰ぎ、その御後にお従いすることこそが、私たちの救いの道なのです。私たちが、その道をしっかりと歩むことができるようにいつも祈り求めてまいりたいと思うのです。

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