2017.11. 5.
エレミヤ書29:10〜14、 マルコによる福音書10:46〜52

「安心しなさい。立ちなさい。」

 主イエスと弟子たちの一行は、エルサレムへの旅の途中でエリコという町に立ち寄られました。そこにおいて主は、バルティマイという名の盲人の物乞いに出会われます。当時盲人は、仕事に就くこともできず、道端で物乞いをするほかはない悲惨な状況に置かれておりました。その日いつものように道端に座って物乞いをしていたバルティマイは、いつもとは違う雰囲気を感じ取りました。彼が耳をそばたてていると、人混みのなかから「ナザレのイエス」という言葉が耳に入ってきました。「ナザレのイエス」は、各地で病を癒やしたり、悪霊を追い出したりしておられる御方だということを彼は以前から聞き知っていたのでしょう。そこで彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めました。旧約聖書では、イスラエルを救う救い主がダビデの子孫から出ると預言されており、「ダビデの子」とは、神から遣わされた救い主を意味する言葉でした。バルティマイは、目が見えませんから、主がどこにおられるかわかりません。そのため主に自分の存在をわかってもらうために、大きな声で何度も叫んだのです。多くの人たちが彼を黙らせようとしましたが、彼はますます大きな声で叫び続けました。その声を主はお聞きになられて、「あの男を呼んで来なさい」とお命じになられました。ここで私たちは少し不自然な感じを受けます。「主は、この目の見えない気の毒な人をなぜわざわざご自分のところにお呼びになるのだろうか。ご自分から彼に近づかれればよいではないか」と。また「このバルティマイと主との距離はそれほど離れてはいなかったはずだし、だいいち目が見えない人をこちらまで歩かせるとはいかがなものか、ちょっと酷ではないか」とも思えます。しかし、このことは、主の救いは、神の救いというものは、主の呼び掛けに対する応答でなければならないということがここで示されているということが言えると思います。その呼びかけが49節にあります「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」という人々の言葉です。これは、バルティマイへの主からの直接の呼びかけではありません。あくまで、弟子たちの口を通して間接的に呼び掛けられているのです。それは私たちに対しても同じです。私たちは、主のお言葉を直接聞くことはできません。それは、教会の礼拝において牧師という人間の口を通して間接的に語られます。そのことによって私たちは神に呼び出されるのです。バルティマイは、その主の呼び掛けに答え、おぼつかない足取りながらも、主の前に進み出て、その願いを述べ、願いを聴き入れていただき、彼は目が見えるようになりました。彼は、長年の宿願がかなって、目が見えるようになり、職を得て新しい人生を歩むことができる道が与えられました。しかし、彼はそうしようとはせず、主にお従いする道を選びました。主は、「私のおかげで目が見えるようになったのだから、私に従いなさい」とはおっしゃらなかったにもかかわらず。彼は、開けられた目で、主のお姿を見て、自分の救いの道は主にお従いすることなのだということに気づいたのです。彼は、神への信仰をもって、主の呼び掛けに答えることにより、新しい者へと変えられていったのです。盲人の物乞いとして暗いトンネルの中を生きる人生から、明るい光の下で救いの新しい人生を歩む者へと変えられていったのです。彼は、おそらく弟子たちと同じように、主のご受難を前にして、逃げ去ってしまったことでしょうけれども、後に主のご復活を目の当たりにして、躍り上がるような喜びに満たされ、主の十字架を仰ぎつつ、復活の光に照らされて、主にお従いして行く道を恵みのうちに歩むことができたのです。それは、彼の名前が聖書に残されていることからも明らかです。私たちもまた、神の御言葉による呼び掛けにお応えすることにより、ふさがれていた目が開かれ、主にお従いしていくという救いの道を歩むことができるように祈り求めて行きたいのです。

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