2017.10. 29. 「秋の特別伝道集会」
マタイによる福音書6:5〜15

「祈るということ」

 私たちはいつもどんなときに祈っているのでしょうか。困ったとき、苦しいとき、とにかく神様に助けていただきたいと思うときに祈ります。しかし、そのとき何を祈るかということにとらわれすぎて、祈る相手である神様のことが二の次になってしまっているということはないでしょうか。そのとき、かなえていただきたい内容が優先されてしまうということが起こっているのではないでしょうか。聖書の教えでは、「何を」祈るかということよりも「誰に」祈るかということを大切に考えます。聖書の教えでは、祈りとは、神様との対話なのです。神様との対話である祈りが信仰の中心です。「神様、とにかく私の祈りを、願いをかなえてください」という願いを神様に一方的に押しつけて、「かなえられなければ、もう信じることなんてやめてしまおう」ということでは信仰になりません。私たちはいろいろなことを神様にお祈りします。それが切実な問題であればあるほど、一生懸命に祈ります。しかし、その祈りは、必ずしもいつも私たちが意図した通りに、望んだときにかなえられるとは限りません。このことはどのように考えればよいのでしょうか。そのことをとらえるために、私たちにとって祈りの相手である神様とはどのような御方なのかということを考えることが重要です。そこで、きょうの聖書の箇所の8節に「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とあることに注目したいと思います。主イエスは、神様のことを「あなたがたの父」と述べておられます。父や母というものは、子供を愛しています。愛しているが故に、いつも子供のためになることは与えようと思っています。しかし、それは子供が求めるままに与えるのではなく、その子のために最も良いと思われるときに、最も良いと思われるものを与えようといたします。しかし、父と母は、ときにはだだをこねる子供を前にして根負けして子供が求めるままに与えてしまうというような失敗もいたします。しかし、天の父なる神様は、私たちのことを本当に愛してくださっているので、愛する私たちのために本当に必要なものを、本当に必要なときに与えてくださるのです。神様は、私たちのためにその愛する独り子を十字架にかけられました。それは、私たちの深い罪が赦されるためであり、実に私たちの救いのためでした。それほどまでに神様は私たちを愛してくださっています。しかし、私たちは祈りがかなえられないときなど、「本当に神様は私たちを愛しておられるのだろうか。神様は私たちに意地悪をしておられるのではないか」などと考えてしまい、信仰が揺らいでしまうときがあります。理不尽と思えるような悲惨な出来事によって深い悲しみの中にある人に対して、「それは神様の御心なのだ」などと簡単に軽々しく言うことはできないでしょう。その出来事の意味は私たちにはわかりません。しかし、ひとつだけ言えることは、主イエスは、罪のない御方であり、その御方が無実の罪で死刑になったということ、そのような理不尽な出来事を主は受け入れられ、その御方を神様は復活させられたのだということです。その復活の主は、私たちの苦しみを共に担い、共に悲しんでくださる御方です。その主が、4章でも聴きましたように、私たちと同じ舟に乗っていてくださっているということ、私たちと共にいてくださるということを信じて、すべてを神様に御委ねしていくことが大切なのです。神様は、私たちの救いのためにその独り子を十字架にかけられました。それほどまでに私たちを愛してくださっています。そして、父なる神は、私たちが願う前から私たちに必要なものをご存知であられます。その父なる神の愛に信頼して、どんなことでも神様に願い求め、つぶやき、語りかけ、時には嘆き、文句を言ってよいのです。もっと私たちは神様に甘えてよいのです。祈りを中心とした、神様とのそのような信頼関係に生きることこそが、私たちの喜びであり、幸いなのです。私たちがいつもそのように歩むことが出来るように祈り求めてまいりましょう。

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