2017.10. 22.
エレミヤ書17:5〜14、 マルコによる福音書10:32〜45

「ヤコブとヨハネの願い」

 エルサレムへの旅の途中で、ヤコブとヨハネが、主イエスの前に進み出て、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と主イエスに願いを申し上げました。彼らを含む弟子たちは、イエスは救い主であり、イスラエルの民を様々な苦しみから救い出してくださる御方だ、ローマ帝国の支配からも救い出してくださる御方だと考えておりましたので、いつか主が神の栄光をお受けになるときが来ると信じておりました。そのときに自分たちも右大臣、左大臣としてともに栄光を受けたいと願ったのです。それは、28節でペトロも主に述べたように、自分たちは何もかも捨てて主にお従いして、苦難にも耐えて頑張ってきたので、そのくらいの報いをいただくのは当然であるという思いがあったのです。そのような彼らに対して主は、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と尋ねられました。「主が飲む杯」「主がお受けになる洗礼」とは、主がエルサレルムで受けられる苦難のことを象徴的に表した言葉です。つまりそれは、主の十字架の右と左の十字架に、彼らがつけられることを意味しますが、彼らにはそのときその意味が分かっていなかったので、「できます」と答えてしまいます。彼らは主の死後ずっと後に殉教の死を遂げたと伝えられておりますが、しかし、主が十字架につけられる直前には、主の前から逃げ出してしまった人たちなのです。主は、彼らの弱さはよくご存知でした。主は、弟子たちが自分たちの頑張りの度合いによって、誰かよりも偉いかということを競って、張り合っていることを問題にされました。それは異邦人がしていることと同じ事なのだ、自分の頑張りによって、力を得て、他人を支配し、権力を振るうようなことがあってはならないのだ、そして自分の頑張りや努力によって救いを得られるのではないのだということをおっしゃりたかったのです。救いはただ神からの恵みによって与えられるものなのです。わたしたちはその恵みをただ受けるだけです。わたしたちが救われるため、罪が赦されるため、永遠の命が与えられるために、主は十字架にかかってくださいました。この罪深いわたしたちに仕えてくださるために主はこの世に来てくださり、十字架にかかって、ご自分の命を献げてくださいました。わたしたちができることは、そのことに感謝して、喜んで主の御後にお従いしていくことなのです。弟子たちは、主の十字架のご受難の直前で逃げ出してしまいましたが、主の復活の後に殉教するほどまでに、主にどこまでも従う者へと変えられていきました。わたしたちもまた、隣人に仕え、神に仕えることができる者となれるように祈り求めて行きたいと思うのです。

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