2017.10. 8.
詩編36:1〜11、 マルコによる福音書10:13〜16

「幼な子と神の国」

 あるとき主イエスのところに、子供たちを連れて来た人たちがおりました。この人たちは、立派な先生である主イエスに触れていただければ、子供たちが丈夫で、賢く育つことが出来ると思って、主のもとに連れてきたのでしょう。日本でも、強い相撲取りに抱かれれば丈夫な子に育つということが古来から言い伝えられており、赤ん坊を連れてきて、大相撲の力士に抱いてもらうということが今でも行われているそうです。弟子たちは、しかし、忙しくしておられる主を煩わせてはいけないと思って、人々を叱り、追い返そうといたしました。しかし、主はそんな弟子たちの姿を見て憤り、弟子たちに「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」とおっしゃいました。当時子供は、神の掟である律法を理解できないゆえに価値のない者、取るに足りない者だと考えられ、非常に軽んじられておりました。したがって、弟子たちは子供たちを連れて来た人たちを追い返そうとしたということもあったのでしょう。しかし、主は、当時の常識を覆して、14〜15節にあるようなことをおっしゃったのです。弟子たちはその主の言葉に驚かされたことでしょう。主はなぜこのようなことをおっしゃったのでしょうか。「子供は素直で純真無垢だから、あなたたちも子供のようになって神の国を受け入れなさい。子供のように純真無垢な者になって素直に神の国を受け入れる人でなければ、決して神の国に入ることはできない」という意味でおっしゃったのでしょうか。そうではありません。そもそも子供というものは、純真で汚れのないものではありません。子供の世界でも陰湿ないじめの問題があるということからもそれは明らかです。子供たちにも罪の側面があります。また「素直」ということについても、子供たちは必ずしもいつも素直ではないということは、実際に大人はしばしば経験させられております。子供は、大人の力なしでは、自分の力では生きられないものです。何をするにしても受け身の存在です。これこれの事をしたから、頑張ったからその見返りとして、報酬として神の国に入れてくださいなどとは要求するはずのない者たちです。ここで主がおっしゃりたかったのは、神の国を神からの一方的な恵みとして、子供のようにただ受ける者になりなさいということです。「神の国 」とは、神の愛のご支配、すなわち神の救いということです。「神の救い」というものは、私たち人間がこれだけ頑張ったから、頑張って奉仕したから、それに応じて与えてくださいと要求できるものではありません。神の救いは、私たちの頑張りに対する報酬として与えられるものではなく、神からの一方的な恵みとして与えられるものなのです。私たちは、業績主義や自己責任論などの考え方に縛られています。いまあなたがこんな状態にあるのはあなたの責任だ、一生懸命に努力してこなかったからだなどという考え方が染み付いているので、神の救いについてもおなじように考え、私は信仰が足りないから、奉仕が足りないから救われないのではないか、逆に、たくさん献げたから、一生懸命奉仕をしたから神は顧みてくださるだろうなどとついつい考えてしまいがちです。しかし、神は、そのようなことに関係なく私たちに恵みを施してくださっております。そのことの究極が、主イエスの十字架です。それほどまでに神は私たちを愛してくださっております。私たちがなすべき事は、その神を信じることです。しかし、神を信じる信仰もまた神からの賜物です。私たちは、感謝の喜びをもって、毎週の礼拝において、神の御言葉に聴き、神を崇め、神を拝み、神を礼拝することが大切です。そのことを神は私たちに何よりもお求めになり、お喜びになられます。私たちは、神をひたすら信じ、神からの恵みを感謝していただく者となれるようにされたいのです。

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