2017.10. 1.
創世記2:18〜24、 マルコによる福音書10:1〜12

「愛に生きる」

主イエスが、エルサレムへの旅の途中に立ち寄られたところで、群衆に教えを宣べられていたときに、ファリサイ派の人たちがやってきて、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」と尋ねました。しかし、逆に主は彼らに尋ねました。「モーセはあなたたちに何と命じたか」。彼らは、聖書の専門家であると自認していましたから、即座に答えました。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました。」このことは、旧約聖書の申命記24章1節に書かれていることを念頭に置いています。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」 この規定は、誠に都合のよい身勝手なものに見えます。男女差別が激しかった当時の社会の考え方が背景にあることは確かですが、この規定は、女性が離婚した後も姦淫の罪を問われることなく、自由に他の男性と結婚できるという、女性を守るための規定でもありました。この規定の中に「妻に何か恥ずべきことを見いだし・・・」とありますが、これは具体的にどういうことを指すのかということがファリサイ派の人たちの間で議論になっておりました。それが、妻の不倫を指すのか、それとも家事をちゃんとしないとかその他のことなのかなど様々に議論されておりました。主は、彼らがそういう議論をしているということを踏まえて質問なさったのですが、彼らに言いたかったことは「あなたたちは聖書の専門家であることを自認して互いに議論しあっているが、聖書に書かれていることの本当の意味がわかっていない」ということでした。どうしたら離婚できるかということは表面的なことであり、ここで問題にされるべき大切なことは、神の御心において結婚とは何かということなのです。そのことを聖書に基づいてきちんと考えなければならないということなのです。そのことを考えるために主は、創世記の箇所を取り上げられました。本日の聖書の箇所の6節から8節には、「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。」とあります。ここは創世記2章18節以下を踏まえて述べられています。このところは、動物のオスとメスが子孫を残すために創られたのと同じような意味で、男と女とを創られたという風に読めますが、本当の意味はそうではなく、お互いが良き助け手として生きるために創られたということなのです。創世記2章18節に「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」とあります。「彼に合う」という言葉はもともと「向き合う」という意味です。口語訳聖書では、このところが「彼のためにふさわしい助け手をつくろう」と訳されておりました。口語訳ですと男が主で女が従という意味合いでとらえられてしまう恐れがありますが、正確には、男と女はお互いに向き合う関係、対等なパートナーとして、助け手として神が創られたということなのです。お互いが共に協力し合い、助け合って生きていくために神が祝福と恵みのうちに男と女を創造してくださったのです。そして「二人は一体である」がゆえに「神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない」のです。しかし、主は、離婚は絶対にいけないということをここで言われているのではありません。私たちの心は頑固であり、私たちは罪と弱さを持っています。それゆえに、二人で一緒にいてもお互いを傷つけ合い、罪に罪を重ねることになってしまうことが度重なることもあるでしょう。そのような場合に、より大きな罪を犯さないためにも離婚という選択肢も排除しないということなのです。  男と女は、互いに目と目を合わせて向き合い、お互い助け合って生きる者として創られました。しかし、罪のゆえにお互いが傷つけ合ってしまうということが多く起こってしまいます。主イエス・キリストは、そのような私たちの罪が赦されるために十字架にかかってくださいました。男と女との間に、そして結婚している男女に限らず、人と人との間に、十字架による赦しがなければ、十字架が立っていなければ、お互いが赦し合い、助け合って生きていくことはできません。私たちが主の十字架を仰ぎ、主の御後に従って、人間同士お互いがしっかりと向き合い、お互いに赦し合い、助け合って生きていくことが出来る者たちとされたいのです。そしてそれは、十字架の赦しの恵みの中にあることによってのみそれは可能なことなのです。      閉じる