2017.9. 17.
詩編22:23〜32、 マルコによる福音書9:38〜41

「キリストの味方」

きょうの聖書の箇所の冒頭にヨハネの名前が出てきます。このヨハネは、十二弟子の一人で、主イエスの宣教のはじめから主のお側にいて仕えていた人です。彼は、その兄弟ヤコブとともに、主から「雷の子」というあだ名をつけられておりました。それは彼らの激しい性格を表していると言えるでしょう。彼らは他の弟子たちにも増して非常に熱心に主にお仕えしていたのです。そのヨハネが、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と主に言いました。当時は、勝手に主イエスの名前を使って悪霊を追い出すというようなことをしていた人たちがいたようです。名前というものは、その人そのものを表すものであり、十戒に「主の名をみだりに唱えてはならない」とあるように、特に神の名については、慎重な扱いが求められたのです。「わたしたちに従う」とは、主の弟子として従えということです。ヨハネは、その人に「主の名を使って悪霊を追い出しているようなことをしたいのだったら、主の弟子として従え」と命じ、その人がそのことに従わなかったのでやめさせようとしたのでした。おそらくヨハネは、主イエスに得意になってそのことを報告し、褒めてもらえると思ったことでしょう。しかし、予想に反して、主の答えは意外なものでした。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」ある学者の説によると、この主の名を使って悪霊を追い出していた人は、信仰を持っていた人ではなかったかということが言われております。使徒言行録19章に、ユダヤ人の祈祷師が主イエスの名を使って悪霊を追い出そうとしたところ、逆に悪霊に反撃されひどい目にあったという話が記されております。そもそも信仰を持っていない者が、主の名を使って悪霊を追い出すことは出来ないことなのです。したがって、きょうの聖書の箇所に出てくる、主の名を使って悪霊を追い出そうとした人は、不十分ながらも主を信じる信仰を持っていた人であったのでしょう。主は、そのような人を敵に回すな、彼のような人もわたしたちの味方なのである、直接弟子にならなくてもわたしたちの味方なのだとおっしゃったのです。わたしたちはともすれば、他人を見るとき、共通点よりも相違点をおもに探し出して、自分の敵か味方か、仲間になれるかそうでないかという風に人を勝手に色分けして、区別してしまいます。主は、隣人をそのような目で見るなと仰っているのではないでしょうか。さらに主は、41節に「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」とおっしゃいます。キリストを信じる者である私たちに、好意を示してくれる者、少なくとも迫害したりしない者、なんらかの協力をしてくれる者に、神は報いを与えてくださると主はおっしゃるのです。具体的には私たちの家族のことが当てはまるでしょう。共に礼拝に集うことが出来ればとてもうれしいが、現実にはなかなかそうはいかない、礼拝に誘いたいがなかなかきっかけもつかめないというようなことであっても、日曜日には礼拝に行かせてくれる、教会まで送り迎えしてくれる、家族の者たちも、私たちの味方なのだ、彼らのことも神は顧みてくださるのだと主はおっしゃっているのです。神は、私たちがかつて神に背き、神に敵対していた者であったにもかかわらず、そのような私たちのために愛する御子を十字架にかけてまで私たちを救ってくださったのです。私たちを、主を信じる者へと変えてくださったのです。その神様が、私たちのために一杯の水を飲ませてくれる者たちを顧みられないはずはありません。キリストを信じる者が圧倒的に少ないこの日本で、私たちが周りの人に対しても、私たちの味方として、友として、見ていくことができる者となれるようにされたいのです。

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