2017.9. 3.
詩編8:1〜10、 マルコによる福音書9:30〜37

「仕える者となりなさい」

主イエスは、弟子たちと共にカファルナウムに来て、ペトロか誰かの家に着いたとき、弟子たちに「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになりましたが、彼らは何も言えずに黙っていました。それは、彼らが途中で誰が一番偉いかと議論していたからです。おそらく、誰がいちばん主に献身的にお従いしているのかというようなことを競って、互いに論じ合っていたのでしょう。その彼らに対して主は、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と仰いました。なぜ主はこのようなことを仰ったのでしょうか。「すべての人に対して謙遜になりなさい」との謙遜の美徳を説かれたのでしょうか。そうではないでしょう。そのような人生訓や道徳を述べられたのではありません。それは36〜37節の御言葉から分かります。主は、「子供を受け入れよ」とお命じになられました。それは、子供の純真であること、無垢であるから、可愛いから受け入れなさいという意味で仰ったのではありません。当時子供は、女性と同じく、社会では取るに足らない者、価値のないものとして、低く見られておりました。そして、そもそも子供というものは、決して純真無垢なものではなく、自分よりも弱いものをいじめたりするという残忍さ、罪深さをも併せ持っています。可愛いだけではなく、扱いずらく、わがままで、傲慢な一面も持っています。その子供を「わたしの(主イエスの)名のために受け入れなさい」とお命じになられるのです。可愛い、愛しいと思える存在を受け入れること、愛することは、誰にでもできることです。しかし、主は、どうも肌が合わない、好きになれない、一緒にいることができないと思われるような人をも受け入れよとお命じになられます。それは、とても難しいことではありますが、そのことこそが「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になる」(35節)ようになるための実践なのだと仰います。それは、どうしてでしょうか。それは、自分が受け入れることができないと思われる人々の中に主イエスがおられるからです。それは、例えばマタイによる福音書25章にもあるとおりです(「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」《40節》)。私たちが受け入れることができないと思われるような人々の中に主イエス・キリストがおられ、主がそういう人々を通して私たちと出会ってくださっているのだ、だから、そういう人々を受け入れるということは、主イエスを受け入れ、父なる神を受け入れることになる(ヨハネによる福音書14章10節)のだということを主は、仰りたかったのです。そしてさらに、「子供を受け入れる」ということについて、考えを深めるならば、次のようなことも見えてくることでしょう。すなわち、「わたしの名のために」「わたしの名のゆえに(口語訳、新改訳聖書)」とは、その子供の持つ価値によってではなく、主がその子供のためにも十字架にかかってくださった、そのことのゆえにということです。「十字架の救いの恵みのゆえに」ということです。主が十字架にかかってくださったのは、神に背き、罪深い私たちのためにということであり、私たちは、神にとって、本来ならば到底受け入れられないような存在であるにもかかわらず、神は、大きな犠牲を払ってくださって、私たちの罪を赦してくださったのです。そのことを見つめるならば、私たちもまた、受け入れがたいと思えるような人々をも受け入れることができる道が与えられているということに気づくことができます。私たちは心を低くして、お互いに赦し合い、受け入れ合って生きる者とされたいのです。      閉じる