2017.8. 20.
エゼキエル書13:1〜7、 マルコによる福音書9:14〜29

「不信仰としての信仰」

きょうのこの聖書の箇所は、信仰とは何かということを中心に述べられております。主イエスと弟子たちが、山から降りてくると、残りの弟子たちが大勢の群衆に囲まれて、律法学者たちと議論を戦わせておりました。悪霊に取りつかれていた子供から、弟子たちが悪霊を追い出せないでいたことについて、律法学者たちと議論していたのでした。弟子たちは、以前に主イエスから悪霊を追い出す権能を与えられていたはずであったにもかかわらず、それができなかったのです。主イエスは、そこにいる全ての人々に対して「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」と仰いました。主イエスは、彼らの不信仰を非難されたのです。父親は、この悪霊に取りつかれた子供を救ってもらおうとして弟子たちのもとにやって来て、主イエスに「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と頼みました。主は、その父親に対して「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と仰いました。この父親の言葉は、一見なにか謙遜であるかのように聞こえます。しかし、主は鋭くそのことが問題であるということを指摘なさいます。この父親は、主に対して全面的に信頼しきっておりませんでした。「主はこのことをおできになれないかもしれない」という気持ちが心のどこかにあったのです。長い間この父親は、子供が救われることを願って、多くの人たちを頼って、あらゆることをしてきたにもかかわらず、その甲斐なく今日に至っているのです。彼の不信仰は理解できないこともないではありません。現に主の弟子たちですら、このことができなかったのです。しかし、主は、「おできになるなら」という父親の言葉に、信仰の不徹底さがあること、信仰のなさがあることを見抜かれたのです。「『できれば』というか。信じる者には何でもできる。」ここで言われている「信じる者」とは、主イエスご自身のことです。主イエスご自身が「信仰者」であるということです。主イエスご自身が信仰者であるとは、なにか聞き慣れない言い方ですが、主ご自身が、父なる神への全き信頼に生きられたからこそ、あの十字架への苦難の道を歩むことがおできになられたのです。ヘブライ人への手紙12章2節には「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」とあります。神への信仰は、人間が創りだしたものではなく、主がお創りになったものであり、全き信仰は、主によって私たちに示されているのです。私たちの信仰は揺らぎやすく、失われやすいものです。私たちの努力や熱心さで信仰を創り出し、保ち、完成させることはできません。ではどうすればよいのでしょうか。それは、この父親のように「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と自分の不信仰を神の前に言い表し、神に全面的に信頼しきって、神に全てを委ねて行くほかはありません。信仰を言い表すということは、自らの信仰のなさ、自らの不信仰を言い表すことに他なりません。この父親は、このように自分の不信仰をさらけだし、神に自らを投げ出して、神に救いを求めたが故に、子供の救いが与えられました。それは、子供の救いだけでなく、この父親も救われたということです。彼は、神を信じる者へと、神によって変えられていったのです。信仰は、私たちの熱心さや努力によって創り出されるのではなく、神からの賜物として与えられるものです。信仰のない私たちが、この信仰のない時代にひとり信じる者として立っておられる主のお姿を仰ぎながら、信じる者へと変えていただけるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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