2017.8. 13.
詩編 84:1〜13、 マルコによる福音書9:1〜13

「主イエスの輝き」

主イエスは、1節で謎めいたことを弟子たちに語られました。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 ここにあります「神の国が力にあふれて現れる」とは、直前の8章38節にあります「父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るとき」と同じことを表しています。すなわち、主が再びこの世に来られる再臨の日、終末の日の出来事のことです。弟子たちの中に生きているうちに、主が再び来られる終末の日の出来事を目にする者たちがいるということです。しかし、マルコによる福音書が書かれてからこれまで約2000年が経ちますが、その日は、まだ来ていませんし、弟子たちももうすでにこの世にはおりません。いったいこれはどういうことなのでしょうか。これは謎めいた主のお言葉ですが、その謎は、2節以下に語られることによって、明らかになります。主が、1節にある約束を弟子たちに与えてくださってから、6日の後に3人の弟子だけを連れて山に登ったところ、主のお姿が、変わってしまったというのです。主のこのお姿は、終末のときに現れる「栄光の人の子」の姿です。このことによって、6日前の(1節にある)主のお約束、預言は実現したのです。3人の弟子たちは、主の栄光を、この世において先取りして、垣間見ることを許されたのです。そのお姿を目にして、弟子たちはとても驚いたことでしょう。ペトロは、主が栄光に輝いて、エリヤとモーセとご一緒にいらっしゃるのを見て、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と主イエスに言いました(5節)。しかし、小屋を三つ建てていったい何になるというのでしょうか。ペトロは、主の栄光に輝くお姿を見て、その輝かしい状態がいつまでも続くように、そこにエリヤとモーセと共に留まっていてくださることを願ったのです。自分の側に留めておこうとしたのです。彼自身も栄光の中に留まりたいと願ったのです。ペトロは、前に「あなたはメシア、キリストです」との信仰を告白いたしましたが、主が十字架と死と復活によって、救い主としての栄光を現されるということを理解せず、傲慢にも主をいさめて、「サタンよ、引き下がれ」と主から厳しいお叱りを受けたのです。彼は、苦難をではなく、栄光を求めたのでした。7節にありますように、そのようなペトロや弟子たちに、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と語りかけられる声が聞こえました。神が弟子たちに主に従うことをお命じになられたのです。それは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8章34節)ということです。私たちもまた、弟子たちと同じように、その主の御後にお従いしていくときに、主の栄光のお姿を垣間見ることを許されるのです。その中心的な場は、毎週の主日の礼拝の場においてです。御言葉に聴き、聖霊の働きにより、私たちに主の栄光が示され、恵みが与えられます。その恵みが与えられることによって、一週間の生きる力が与えられます。困難の中にあっても、主を信じて希望を持って生きる信仰が与えられるのです。私たちは、その恵みが与えられるようにいつも祈って参りたいと思うのです。

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