2017.8. 6.
出エジプト記 3:11〜15、 マルコによる福音書8:31〜38

「キリストに従う」

 ペトロが「あなたはメシア、キリストです」と信仰の告白をしたあと、主イエスは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、殺され、三日の後に復活することになっている」と弟子たちに教え始められました。それを聞いてペトロは、とても驚き、主をわきへお連れして、いさめました。救い主ともあろう御方が、そのような惨めな、敗北としか思えないような目に遭うわけはないではないですか、そんなことを仰ってはいけません、というようなことを言ったのかもしれません。ペトロは、主イエスという御方が、力に満ちた勝利者としての栄光の救い主だと考え、受難によって救いを成し遂げられる救い主だということを十分に理解していませんでした。そのペトロに対して、主は、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とお叱りになられました。ペトロは、先に「あなたは、メシア、キリストです」との信仰の告白をすることができましたが、彼は「救い主とはどのような御方か」ということについて、自分の勝手な思い込みを、主に当てはめていたところがありました。そのことによって、彼は、主に従う者ではなく、逆に主を導く者となろうとしたのです。誠に畏れ多いことですが、それはなにもペトロだけではなく、私たちもしばしば犯してしまう過ちです。「神とはどういう御方か」という私たちの自分勝手なイメージや考えを偶像化して拝み、主の教えに従うことよりも、そちらのほうを優先してしまうということがあるのです。主は、ペトロをお叱りになった後、弟子たちと群衆に「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と仰いました。「自分を捨て、自分の十字架を背負う」とはどういうことでしょうか。このことについて、ある神学者は、次のように述べています。「宗教改革者ルターは、説教の中で、私の十字架はどこにあるのかと探す必要はない、と言いました。皆主イエスの後について生きる思いに生き始めた時に、そこで直ちに、十字架を背負っているのです。人を愛することは、すでに十字架を背負うことです。自分の子供を愛し抜くということは、自らをどこかで殺していなければ本当には出来ないことです。」私たちは、キリストを信じて生きようとするときに、それぞれの十字架を背負います。「自分を捨て、自分の十字架を背負うこと」と「主に従う」ということとは、ひとつのことなのです。主イエスは、私たちに従うことをお命じになられます。それはなにか見返りを求めて、することではありません。しかし、そのことによってわたしたちは、結果的に何が与えらているのかということが、35節から37節にかけて述べられております。35節に「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とあります。「自分の命を救いたいと思う者」とは、自分の力で自分の栄誉や利益だけを追求して生きようとする者です。人間は、いずれ必ず死を迎えます。「自分の命を救いたいと思う者」は、死で終わるしかない命しか持たないのです。しかし「わたしのため(主のため)、また福音のために命を失う者」すなわち、自分を捨て、自分の十字架を背負って、主にお従いし、福音を信じて生きる者は、永遠なる神の命に生きることができるのです。死では終わることがない、救われて生きる新しい命が与えられるのです。その命は、主イエスが十字架にかかられ、復活されることによって、生み出してくださった新しい命です。それは「どんな代価を支払」っても買うことが出来ないほどに貴重なものなのです。    閉じる