2017.7. 30. 
ゼカリヤ書8:1〜9、マルコによる福音書8:27〜30

「あなたは救い主です」

きょうの箇所からマルコによる福音書は、新しい展開を示してまいります。ここから主イエスは、エルサレムへの道、受難と死への道を歩まれます。従って、ここはマルコによる福音書における大きな転換点であると言っていいでしょう。主イエスは、ガリラヤ湖北方のフィリポ・カイサリア地方へ出かけられる旅の途中で、弟子たちに「人々は、私のことを何者だと言っているか」と問われます。彼らは、人々が主イエスのことを「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の一人」だと言っていると答えます。ここで明らかなことは、世間の人々は、主のことを、人生の立派な教師あるいは偉人の一人という風にしかとらえていなかったということです。しかし、主は、世間の評判を気にしてこのような質問をなさったのではありません。主は、29節にありますより本質的で重要な問いである、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いの備えとしてこの質問をなさったのです。「世間の人々は別にして、あなたがた自身はわたしのことを何者だと考えているのか」という問いが、この第一の質問の後で発せられました。原文では、「あなたがた」という言葉が文の最初に置かれ、強調されています。それは「世間の人々がなんと言おうと、ほかでもないあなたがた自身はどうなのか」という意味です。これは、弟子たちに対して真正面から主が問われた問いです。それを適当にかわすことは許されません。真剣に答えなければなりません。それは私たちにとっても同じです。わたしたちもまた同じ問いの前に立たされているのです。ペトロは、その主の問いに対して弟子たちを代表して答えました。「あなたは、メシアです。」この箇所は、口語訳聖書では「あなたこそキリストです」となっておりました。メシア、キリストとは、「油注がれた者」という意味です。旧約の時代では、王や預言者、祭司の任命にあたって、頭に油を注ぐことがなされておりました。このことから後に、「メシア」「キリスト」は、イスラエルを外国の支配から解放し、イスラエルを力強い国として再興する政治的な支配者、救い主を意味するようになりました。ペトロは、主イエスをただ単に「立派な教師」や「預言者」などではなく、「救い主」としてとらえたのでした。「救い」とは「苦難からの解放」を意味します。ペトロは、政治的な意味でも、精神的な意味でも、いろいろな意味からも主イエスこそが救い主であられるとの信仰を言い表した(信仰の告白)のです。主イエスと弟子たちが旅していたフィリポ・カイサリア地方は、ギリシャの神々や、ローマ皇帝を神として祀った神殿があるところでした。主は、弟子たちにそのような異教の神々が祀られているようなところで、「あなたがたはわたしを何者だというのか」との問いを投げかけられたということは重要です。神から私たちの信仰を引き離すようなものが満ちあふれているところのまっただ中で、主は、私たちに信仰の告白を求められるのです。主はいまも私たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」との問いを投げかけ続けておられます。ペトロは、このあと、主が救い主としてこの世に来られた意味を十分に理解していなかったということ、弟子として欠けの多い面を露呈してしまいますが、そのような弱い欠けの多い弟子であったペトロも最後には殉教するまでに変えられていきます。それは復活の主との出会いによることです。私たちもペトロと同様に弱く欠けの多い者ですが、「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」との問いに「あなたこそメシア、キリストです」「あなたこそ救い主です」との信仰を声をあわせ、心をひとつにして言い表すことができるように祈り求めてまいりましょう。

          閉じる