2017.7. 16.
エレミヤ書 29:4〜14、 マルコによる福音書8:22〜26

「見えるようにしてくださる方」

きょうの箇所で一人の盲人が登場いたします。この盲人の知り合いが、主イエスの評判を聞いて、主に直接、見えるようにしていただきたいと彼を連れて来ました。この盲人は、主によって見えるようにされました。先週聴きました18節で、弟子たちは「目があっても見えないのか」と主に叱責を受けています。主は、弟子たちが、四千人の給食の奇跡を目の当たりにした後でも、その意味を悟ることが出来ずにいたことを問題になさいました。彼らは、舟の中にパンをひとつしか持ってこなかったことにうろたえてしまったのです。自分たちが神の恵みのうちに入れられているということを忘れ、自分たちの無力さを嘆き、動揺したのです。しかし、七つのパンで、主が先ほど四千人の人を満腹させたということがどういう意味を持っているのかということを理解していれば、ひとつのパンしか持って来なかったということは、たいした問題ではないということが、弟子たちにはわからなかったのです。彼らは、主がわずかのものを用いて、多くの人を養ってくださるということ、恵みのうちに入れてくださっているということが理解できなかったのです。彼らが、神の恵みのうちに入れられているということが見えていなかったのです。そういう意味で言えば、弟子たちもこの盲人と一緒でした。私たちもまた同じように、見るべきものが見えないでいる者たちです。弟子たちもまたこの盲人と同じように、主によって、主のお力によって見えるようにしていただくことが必要でした。それでは、見えるようになるとはどういうことでしょうか。それは、私たちが神の恵みのうちに入れられているということがわかるということです。それは、私たちが肉の目で見ているこの現実が、望みのない、暗い、救いようのないように見えるとしても、私たちは、神の恵みのうちに入れられているということ、神に守られているということが見えるようになる、わかるようになるということです。それでは、見えるようになるにはどうすればよいのでしょうか。それは、自分の力では出来ません。この盲人と同じように主に触れていただくことによって見えるようにしていただくことが必要です。それは、主イエスとの交わりの中に入れられることによって、聖霊の力によって可能となるのです。それは、御言葉に聴き、聖霊の力を注いでいただくことによって、徐々に見えるようにしていただけるのです。御言葉に聴くことよって信仰が与えられ、信仰の目が開かれるのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉に聞くことによって始まるのです。」(ローマの信徒への手紙10:17)。神は、私たちを救ってくださるため、私たちの罪を赦してくださるために、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられ、よみがえらせ給いました。そのことを信じることによって、私たちが、神の国に入れられ、永遠の命を与えられているという大きな恵みの中にいるということを知ることが出来るのです。私たちが、日ごとのパンを与えられるという恵みだけでなく、さらに大いなる恵みのうちに入れられているということを知ることが出来、平安のうちに生きることが出来るのです。27節以下の聖書の箇所には、「わたしを何者だと言うのか」との主の問いに対して、ペトロが「あなたは、メシア(救い主)です」との信仰の告白をいたします。このペトロの告白は、彼が自分の力で悟ったことではなく、神の啓示によることです。神のお導きによることなのです。彼は、神によって見るべきことをしっかりと見る目を与えられ、大切なことを悟ることができたのです。私たちもまた大切なことを見ることが出来るように、悟ることができるように、神に祈り求めてまいりましょう。

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