2017.7. 9.
詩編 103:1〜22、 マルコによる福音書8:1〜21

「悟りを得て生きる」

 四千人の給食の奇跡があった後、主イエスは、弟子たちとダルマヌタの地方に行かれました。そこにファリサイ派の人々が来て、主イエスを試そうといたしましたが、主はそれに取り合わず、また船に乗って向こう岸へ渡られます。その船の中で「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と主はおっしゃいました。弟子たちは、自分たちが食事のパンを一つしか持って来なかったことを咎められたのかと思ってうろたえました。しかし、主はそんなことを問題にしようとなさったのではありませんでした。パン種とは、イースト菌のことです。イースト菌は、少しの量でもパンの生地を大きく膨らませることが出来ます。パン種は、当時わずかのものが全体に浸透し、悪影響をもたらすという悪いイメージを表す時に例えとして用いられた言葉です。「ファリサイ派のパン種」は、11節から13節にありますように、天からのしるしを求め、主を試そうとしたことに表されています。すなわち、誤った、にせの信仰のことです。彼らは、律法に熱心な人たちでしたが、キリストにおいて表された神の救いの御業を正しく理解しようとはせず、奇跡を見世物か何かのように考えておりました。彼らは、神がキリストの奇跡を通して、すでに神の国が来ていること、神のご支配が始まっていることを伝えようとなさっておられるということを全く理解しようとせず、彼らの信仰は、誤った、にせの信仰になってしまっていたのです。「ヘロデのパン種」とは、ヘロデ王に見られる不信仰のことです。ヘロデは、神なき生活を送っていた人でしたが、洗礼者ヨハネをそれなりに尊敬し、ヨハネが語る神の御言葉にも喜んで耳を傾けておりました。しかし、自分が娘にしたつまらない約束を果たすため、見栄にこだわって、ついにヨハネを殺してしまいます。ヘロデは、ヨハネを殺すつもりなど最初はなかったのにもかかわらず、自分の不信仰な心が思いもかけず、想像以上に増大してついにはヨハネを殺すまでになってしまったのです。弟子たちは、もとより主イエスを殺したりするようにはならないとは思われますが、彼らの中にいつ何時、ファリサイ派のパン種やヘロデのパン種のように、誤った信仰やにせの信仰、不信仰の心が入り込んで、それらが大きく増え広がり、信仰を失うという状況に陥ってしまいかねないことを主は、心配なさったのです。弟子たちは、少し前まで、主がなされた四千人の給食の奇跡を目にしたばかりだったのに、その意味を理解せず、ひとつのパンしか持ってこなかったことに気をとられ、神の恵みにより頼むということをすっかり忘れて、自分たちの無力さに落胆し、うろたえることしかできなかったのです。主は、弟子たちが四千人の給食の奇跡を前にしても、見るべきことを見ず、聞くべきことを、聴かず、悟ろうともしないことを問題になさいます。このことは私たちも同じことが言えます。神は、愛する御子を私たちの罪を赦してくださるため、救いのためにこの世にお遣わしになられ、十字架にかけられました。私たちは、そのことの意味を忘れ、神の恵みを忘れて、自分の力でなんとかしようとし、自分の無力さに絶望してしまうという誠に弱い者たちです。よみがえりの主が、私たちと共にいてくださっているということを信じ、私たちが、父、子、聖霊なる神の交わりの中に入れられているということを信じ、そのことによって、私たちが神の恵みのうちに生きているということを悟って、困難の中にあっても希望を持って生きていくことが出来るように祈り求めてまいりましょう。

     閉じる