2017.7. 2. 教会創立記念・召天者記念礼拝 
イザヤ書 25:6〜11、 コリントの信徒への手紙一15:50〜58

「朽ちない者となさる神」

 使徒パウロは、この手紙で、この世の生がすべてではなく、私たちは主が再び来られる終わりの日に復活することが出来るという希望に生きているのだと述べています。私たちの復活の根拠は、主の十字架と復活です。主の復活が、私たちの復活の先駆けなのです。それでは、私たちのよみがえりの体は、どのようなものになるというのでしょうか。それは、「蘇生した死体」でもなく「幽霊」のようなものでもありません。それは「霊のからだ」(44節)です。パウロはそれを示すのに「この朽ちるものが必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになる」という表現を用いています。それは、「変容したからだ」です。生前の姿とは、違ったものに変えられるのです。しかし、それは、人間の生きたからだと全く異なったものでもなく、復活前と後とではなんらかの連続性が認められます。そのことを表すためにパウロは、種子のたとえを用いました。種子は、成長して、蒔かれた際とは別の形に姿を変えるのです(36〜38節)。しかし、パウロといえどもこれ以上に詳しい説明はできませんでした。それでも、そのことをパウロが復活の主に出会ったという体験に基づいて述べていることはほぼ確実です。私たちは、終わりの日に復活の主と似た体にされてよみがえるのです(49節)。それでは、私たちがいま生きているこの地上の生というものをどう考えたらよいのでしょうか。50節に「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」とあります。「神の国を受け継ぐ」とは、救いの完成にあずかるということを意味しています。すなわち、私たちはこの世では救いの完成にあずかることはできないのです。しかし、そのような私たちは、終わりの日には、よみがえって、永遠の命に生きる希望が与えられております。私たちのこの地上の生涯がいかに不遇に満ち、苦しみ、悲しみに満ちたものであっても、死の彼方に、復活の希望、永遠の命に生きる希望が与えられているのです。それは信仰によって私たちが与えられている希望です。神は、愛する御子を十字架にかけられ、復活させ給いました。そのことによって、私たち人間の力では到底打ち破ることができないほど大きな死の力に勝利なさったのです。したがって私たちが、死の力を恐れる必要はなくなったのです。ところで、「この世では救いの完成にあずかることはできない」と言っても、だからといってこの世を生きるということを軽んじてよい、いい加減に生きてよいということではありません。この世の生は、終わりの日の備えの時なのであり、「主の業に常に励むことが大切なのです。」(58節)。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(58節)。しかし、「主の業に励む」ことによって、救いの完成を勝ち取ることができるということではありません。私たちがする努力は欠けの多いものであり、不完全です。「主の業に励むこと」すなわち、私たちが、洗礼を受けて、教会の一員となり、礼拝をお献げし、教会の業に励むことは、復活の希望に生きる私たちに対して、神が求めておられることなのです。そして、それが「主に結ばれて」なされるならば、そこに苦労があっても、決して無駄になることはないと神が約束してくださっているのです。

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