2017.6. 25. 
ミカ書 6:1〜8、マルコによる福音書 7:24〜30

「シリア・フェニキアの女の信仰」

きょうの箇所では一人のギリシャ人女性が登場いたします。彼女には「汚れた霊に取りつかれた幼い娘」がおりました。彼女は、いろいろと手を尽くしたけれども娘から汚れた霊を追い出すことが出来ずとても苦しんでいたのです。彼女は、各地で病を癒やしたり、悪霊を追い出したりしておられた主イエスの評判を聞いていたのでしょう。主が、彼女の住む町に来ておられるということを知り、すぐに主の元にやってきて、その足下にひれ伏して、「悪霊を追い出してください」と願いました。彼女の願いはとても大胆なものでした。それは、彼女がユダヤ人ではなく異邦人だったからです。当時、ユダヤ人は、異邦人のことを、律法を持たず、それゆえ律法を守らない汚れた者たちだとして、嫌悪し、忌み嫌っていたのです。ですから、ユダヤ人である主イエスのところにやって来て、異邦人である彼女が、主イエスに救いを願うということはかなり大胆なことでありました。主は、その彼女の大胆な願いをすぐにお聞きにはなりませんでした。主は、彼女に「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(27節)とおっしゃいました。「子供たち」とは、ユダヤ人を、「子犬」は、異邦人を指します。普通、自分のことを犬呼ばわりされれば、怒ります。しかし、彼女は怒ってそこを立ち去ったりしたのではなく、「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます」と主に憐れみを請うたのです。彼女は、自分は犬のように「恵みを受けるに値しない者」ではあるが、神は、憐れみによって恵みの端に加えてくださるお方だと信じ、その恵みによりすがったのです。そういう彼女に対しては、「あまりにも卑屈すぎる」という非難の言葉が浴びせかけられそうですが、そういう非難を浴びせる人たちの心の中にはある種の傲慢さが潜んでいると言えるのではないでしょうか。それは、「自分は神を信じているんだから、神から恵みを施されて当然だ」という思いです。私たちにもどこかにそのような思いが潜んでいます。私たちは時には、「神を信じているのに、いつも祈っているのに、神はなぜ私の願いを聞いてくださらないのか」と嘆き、「願いを聞いてくれるのは当然」とばかりに神に文句を言います。それは、私たちのプライドから生じるおごり、たかぶりです。私たちの祈りや願いによって神をコントロールすることができるのではありません。救いは、神の憐れみによることなのです。主導権は、あくまで神にあるのです。「それならいくら祈ったって意味がないのではないか」と考えてはいけないと思います。神は、私たちが祈ることを求めておられます。天の父なる神は、「ねたむ」ほどに私たちを愛していてくださるお方です(出エジプト記20章5節、口語訳)。私たちのために最も良いことをしてくださるのです。私たちは誠に罪深い者たちであり、本来は神の恵みを受けるに値しない者たちであります。しかし、そのような私たちの罪を赦し、救いの恵みをお与えくださるために、神は愛する御子を十字架にかけられるという大きな犠牲を払われました。私たちは、そのことを深く心に留め感謝し、おごり、たかぶる心を正してくださるように神に祈り、この女性のように本当にへりくだった心で、神に憐れみをこいねがい、大胆に神に救いを求めて行くことができるように祈り求めてまいりましょう。

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