2017.6. 11. 
詩編32:1〜11、マルコによる福音書7:1〜23

「人をけがすもの」

  きょうの箇所は、「汚れ」について書かれています。ここでいう「汚れ」とは、衛生上のことではなく、宗教的な意味での「汚れ」です。その汚れということに特に注意を払っていたのが、きょうの箇所に出てくるファリサイ派や律法学者でした。旧約聖書の教えでは、汚れた者は神の前に立つことが出来ないとされていました。例えば、死人に触れた者、汚れた動物とされたもの(例えば、豚、らくだ、野ウサギ、ひれや鱗のない魚など)を食べた者、重い皮膚病にかかった者などが、宗教的に汚れた者とされていました。ここに出てくる「手を洗って食事をする」という規定は、旧約聖書にはないのですが、彼らは旧約聖書にもともとある戒めを犯さないようにするために、その戒めの周りにめぐらせた垣根として、自分たちで作った規定を設けてそれを守っていました。そのひとつが、この「食事の前に手を洗う」という規定でした。そのほかにも「市場から帰ったときには身を清めてからでないと食事をしない」ことなどの規定がありました。彼らはそれらの規定を守ることで、汚れから身を守り、神の前に清い者として立つことが出来ると考えていたのです。しかし、主は、彼らのそのような行為を偽善だと非難なさいます。「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(8節)と。そのことの典型例として主イエスは、「コルバン(神への供え物)」に関する話を取り上げられます。「コルバン」の規定は、本来は、「私は、神への供え物をします」との誓いをなした当人を束縛する規定として考えられていたのですが、それが、ほかの人に(父母を含む)、ある物の使用を不可能にするために用いられることもありました。この「コルバン」の規定は、人間が考え出した規則でした。当時その規定を悪用し、自分の都合の良いように解釈して用いることによって、十戒にある「あなたの父母を敬え」との戒めが無にされているということが起こっていました。これこそ本末転倒の行いでした。ファリサイ派や律法学者たちは、神の掟を守るような態度をとっているように見せながら、人間の作った決まりを形式的に守ることに中心を置き、結果的に神の戒めをないがしろにしていました。そして、「人間の言い伝え」を守っていない者を裁き、見下していたのです。  14節以降では、主は、そもそも食物に汚れた物などはない、神の造られたものは、すべて清いのだとおっしゃって、本当に人を汚す物は何かということを明らかにしておられます。18節にある「外から人の体に入るもの」とは、食物のことです。豚や野ウサギの肉などを食べることが人を汚すのではなく、「人から出て来るものこそ、人を汚す。 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(20?23節)と主は、おっしゃいました。人の心の中から出てくるこれらのものは、言い換えれば「罪」ということです。ファリサイ派や律法学者たちは、病原菌のように外から付着するものによって汚れるのであり、それを洗い流すことによって清くなれると考えていたのです。しかし、外から付いた汚れをいくら洗い流してもそれは、外側だけ清くなるだけで、内側からにじみ出てくる汚れは、洗い清めることはできないのだと主はおっしゃっているのです。内側からにじみ出てくる汚れを清めることは、私たち人間がどんなに頑張っても決してできることではありません。私たちの罪の汚れを洗い清めてくださるために、神は愛する御子を十字架にかけられました。そして、そのことを信じ、受け入れることによって、神は私たちに「救い」を与えられるのだ、神の国に私たちを迎え入れてくださるのだと主はおっしゃっておられるのです。しかし、そのことを信じることにおいてたえず破れている私たちですが、聖霊の力によって、私たちにそのことを信じる力が与えられ、私たちのすべてが新たにされ、清められることをいつも祈り願って行きたいと思うのです。

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