2017.6. 4. ペンテコステ礼拝
創世記11:1〜9、使徒言行録2:1〜21

「聖霊降臨」

  2章1節にある五旬祭の日は、ユダヤ人にとって過越の祭りなどと並んで大切な祭りです。外国各地から、散らされていたユダヤ人たちがイスラエルに巡礼のために集ってきておりました。そして 1節にある「一同」とは、15節にありますように使徒たちや120人ほどの人たちのことでありましょう。そしてこれは「教会」を表わしております。彼らは熱心に心を合わせて祈って待っていました。何を待っていたのでしょう。それは聖霊が降り、力を受けることを待っていたのです。このことは、予め主イエス・キリストによって約束されていたことでした(1章4節)。突然にこういうことが起りました。集った人たちは五旬祭の日にこういうことが起ることは全く予想しておりませんでした。いつ起るかはわからなかったけれども、主の言葉を信じて待っている間にこのことが起ったということが重要です。2節で「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ」とあり、そのことに驚いて大勢の人が集ってまいりました。実際に風が吹いてきたのか、その風によって建物が揺れて、壊されたということがあったのでしょうか。どうもそうではなかったようです。大音響が聞こえただけでありました。これは、聖霊が降ったということが、風のような音を伴って起ったということを示しております。聖霊そのものは形も色もないので実際には見えません。音もしないので聞こえません。聖霊が到来したことは私たちには見えないし、分からないのです。しかし、五旬祭の場合には、聖霊降臨の約束が成就していることを、聖霊そのもの、また聖霊の働きそのものによってではなく、「大音響」や「炎のような舌」といった聖霊の降臨に伴う「しるし」によって神はお示しになったのです。 さて、2章5節から6節には 「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」とあります。  現代でもそうですが、ユダヤ人は世界各地に散らされており、当時彼らは「ディアスポラのユダヤ人」と呼ばれておりました。6節にあります「自分の生まれ故郷の言葉」とは、例えば「日系ブラジル人」であれば、ポルトガル語、「日系アメリカ人」であれば英語というとになりましょうか。それまで、外国語を知らなかったガリラヤの人々が突然外国の言葉で話し出すということは実に不思議な出来事です。この出来事につきましては、ペトロが14節以下で、ヨエルの預言を 引用して、これは「預言の成就」であったと説き明しております。それは、そうとしか言えない、そのとおりに受け入れるほかはない出来事でありました。17節で、ペトロは、預言者ヨエルの言葉を引用して、「終りの時に、わたしの霊を全ての人に注ぐ」と語りました。聖霊降臨の出来事によって、「終りの時」がこの世に突入してきたのです。「終りの時」とは、イエス・キリストがこの世に再び来たりたもう日に向かってこの世が歩み始める時のことです。聖霊降臨の出来事によって、教会はその土台を据えられ歩み始めました。そこから新しい時代が始まりました。11節にありますように「主の名を呼び求める者は皆、救われる」との喜ばしい福音を世界に宣べ伝える務めが教会に与えられたのです。私たちはいつもこの聖霊降臨の出来事に立ち返り、福音宣教と教会形成の業に希望をもって励むことが出来るように祈り求めてまいりたいと思います。 閉じる