2017.5. 7.
イザヤ書65:1〜5a、マルコによる福音書5:21〜43

「あなたの信仰があなたを救った」

 私たち信仰者にとりまして信仰というものが大切なことであるということは、言うまでもないことです。聖書では多くのところで主イエスが「信じなさい」とお命じになっています。それは私たちの信仰が揺らぎやすいものであることを主はご存じであられるからです。主は、今日の箇所で、神の大いなる救いの力を信じて生きることの大切さを語っておられます。今日の物語では、ヤイロの娘と、主イエスの服に触れて救われる二人の女性が出て参ります。会堂長ヤイロは、瀕死の状態ある娘を救っていただこうと必死に主に助けを求めます。主はその切なる願いに応えて彼の家へ急いで向かわれます。しかし、そこにその道を遮るようにして、一人の女性が主の前に現れます。彼女は、12年間も出血の止まらない病にかかり、多くの医者に診てもらったが、一向に治らず、大きな苦しみの中にありました。しかし、彼女の苦難はそのことだけにとどまりませんでした。彼女の病気は、当時、宗教的に汚れたものとされ、その患者は、他人との接触が禁じられ共同体の交わりからも排除されておりましたので、彼女は孤独の苦しみ中にもありました。すなわち、彼女は二重の苦しみを受けていたのです。その彼女が、主になんとか救ってってもらいたいとの一心で主の服に触ったところ、病が癒やされたことを感じました。その時、主はご自分の体の中から力が出ていったことに気づかれ、その服に触れた者をお探しになります。彼女との人格的な交わりを求められます。彼女は、そのことに畏れを感じて主の前に出て、事情を話しました。そのとき主は、彼女に救いを宣言されます。「娘よ。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 ここで使われております「救った」と言う言葉は、病気を「治す」という意味だけでなく、もっと広い意味での救いを意味する言葉です。彼女は、主との出会いによって、ただ単なる病の癒やしだけではなく、それ以上のものが与えられました。それは、彼女の全存在にわたる救い、すなわち神の平安ということです。さて、主が病を癒やされた女性と話をしていたときに、会堂長ヤイロの家の者がやってきて、娘が死んでしまったことを伝えます。娘の父である会堂長ヤイロにとっては、「もっと早く主が家に向かってくれれば、よかったのに」と主に抗議をしたい気持ちだったことでしょう。しかし、主は、彼に「恐れることはない。ただ信じなさい」と仰ったのです。そのとき彼の心の中には「もう駄目だ、絶望だ」という声と、「希望を捨てるな。諦めるな」という二つの声が響いていたことでしょう。彼は、前者の声に耳をふさぎ、後者の声に従い、主のお約束にすがりつくようにして家路を急いだのです。一行がヤイロの家に着いたとき、皆が泣き騒いでおり、娘が死んだということがわかりました。しかし、主は、「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は眠っているのだ。」と仰り、子供のいる所へ入って行かれ、子供の手を取って、「タリタ、クム(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」)」と言われ、少女はすぐに起き上がり歩きだしたのです。ここに主のお約束が実現しました。このことにより会堂長ヤイロは、神を信じる信仰をさらに堅くしたことでしょう。信仰とは、死人をも生き返らせることがお出来になる神の偉大な力を信じることです。きょうのこの聖書の箇所を通して、神は、私たちの目には見えないけれども、目に見える何ものよりも確かな、神のお約束を信じて生きること、神の救いを信じて生きること、そのような信仰に生きることを私たちに求めておられるのです。そのような信仰が与えられるように祈り求めてまいりましょう。

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